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コラム
もう一度、マットの上で 第2回 「毎回ちゃんとできないと、意味がないですよね?」

できない日があっても、マットの上に立っていい。このコラムは、かつてアシュタンガヨガに触れたことがある方(もしくは理由があって止めてしまった方)、気になっているけど一歩が踏み出せずにいる方に向けて書いています。
「毎回ちゃんとできないと、意味がない」——真面目な方ほど、一度はそう感じたことがあるのではないでしょうか。アシュタンガヨガは毎日練習するスタイルであるからこそ、この悩みは切実です。第2回は、この"ちゃんと"という言葉の正体について、僕自身の経験を交えて考えてみたいと思います。
"ちゃんとできる"の基準はどこにあるのか
そもそも「ちゃんとできた日」というのは、誰が決めているのでしょうか。呼吸が浅かった日も、集中しきれなかった日も、それは失敗ではなく、その日のカラダとココロの状態がそのまま表に出ているだけです。毎回同じようにできることを目指す練習ではなく、その日ごとの違いに気づいていく練習だと捉えると、見え方が変わってきます。
僕自身、「今日はやりたくないな」と何度も思ってきた
正直に言えば、僕自身、練習に行きたくない日は何度もありました。前の日に会食があって深夜まで起きていて、しかも満腹状態のまま迎えた朝。特に病気でも怪我でもないけれど、体の節々がなんとなく重い日。どこかが痛くて、なんとなく気分が乗らない日。
こうした"本当にできない日"にどう対処すればいいのか、最初は誰も教えてくれませんでした。毎日練習するという仕組みがある以上、完璧主義を貫こうとすると、そこには必ず矛盾が生まれます。
先生や諸先輩に相談すると、答えはそれぞれでしたが、共通していたのは「自分の声に従うこと」でした。ただ、それは単に練習を休む、サボる、あるいは西洋医療的に安静に過ごす、ということとは違いました。マットの上に乗ること自体はやめない、ということだったのです。
毎日練習する仕組みだからこそ、どう対応するか、その判断自体が練習に含まれています。マットの上で自分の状態を自分で確認し、自分に問いかけ、自分で決める。誰にも頼らず、ひたすら自分と向き合い続けるプロセスです。こういうことが苦手な人は、おそらくここでもやはり苦手だと感じるだろうと思います。
僕は昔から一人っ子で、家の中でも一人で過ごす時間が長く、自分の中で考えを巡らせたり、自分に問いかけたりすることが割と自然にできるタイプでした。誰かに答えを求めるより先に、まず自分と対話してみる。そういう性分だからこそ、アシュタンガヨガのこの部分——自分で確認し、自分で決めるという練習のあり方——が、一番面白いと感じるのかもしれません。
"普通に頑張る"だけが正解じゃない
幸い、僕が身を置いてきた環境は、こうして「自分の声に従っていい」というスタンスの先輩が多い場所でした。
ただ、すべてがそうとは限りません。「伝統的な練習法」というメソッドを厳格に守ることを重んじる指導者もいて、たとえ体調が悪くても「普通にノーマルプラクティスをするのである」と、アジャストも一切の手加減なしに進めるような、原理主義的とも言える指導のもとで、心身を壊してしまった方の話を何人も聞いたことがあります。
*僕自身は、そうしたスタンスの方とは、今は一定の距離を置きたいと思っています。アシュタンガのシステム自体がイコール聖典であり不可侵であるという考え方には危うさしか感じられません。
一人ひとりに合わせた"一里塚"
ToMe Yogaには現在、20代から70代まで、幅広い年齢の生徒さんが練習しています。それぞれにライフステージも、既往歴も、抱えている運動器の状態も違います。
一番大切にしているのは、その方が「ヨガに何を求めているか」に合わせることです。極めたいのか、精神を落ち着かせたいのか、運動不足を解消したいのか。目的によって、目指す一里塚(マイルストーン)はまったく変わってきます。
このヨガには、小さな小目標が無数に設定されていて、どこから始めても構わないと僕は解釈しています。そう考えると、「できなくても続けていける」ということと「完璧主義」は、実はコインの裏表のような関係にあるのだと思います。
できない日があっても、もう一度マットの上に立ってみませんか。ちゃんとできることよりも、続けていくことの方が、ずっと大切なのです。
Tomohiko